才能について

今日の言葉はネクシーズの近藤社長の言葉だ


「仮に10回練習すれば、少なくとも練習する前の自分には勝てるはずだ。
100回練習すれば、もう少しうまくなるだろう。
ただし、1000回練習するとそこで伸び悩むかもしれない。
その壁をぶち破れるかどうかと言うレベルになって初めて才能の有無が問題になるのだ。
それ以前の段階なら才能は関係ない。
だからどんな才能の持ち主でも、まず努力することが最低限の前提となる。
その上で、一定のレベルを超えた人だけが、人並み以上の能力を発揮する可能性がある」



ちょっと長いが、同氏の著書「日本で一番の情熱会社をつくる」から引用。


才能と言うのは、ある程度のベテランとなったとき、そこでの更なる成長のために必要なものなのだ。
だから、まだその最初の段階、では、才能は無関係となる。
最初の段階でうまくいかないのは、努力が足りないか、運が足りないだけと言うことだろう。


実感です。


高校の部活で、チームが伸び悩み、成長が停滞したとき、選手は「スランプだ!」とわめいた。しかし、顧問の先生が言っていたが、
「お前らはスランプなんて、大それたものではない。君達ビギナー選手の成長の停滞はプラトー(確か「高原」の意)というものだ。そもそもスランプと言うのは、プロ選手レベルの人の成長の停滞を指す。君達が使うことはおこがましい」
と一喝されたことを思い出した。


スポーツの成長曲線は右上方向に階段状に伸びていく(縦軸:能力、横軸:時間・練習量)
高校の部活など、あるスポーツやり始め数年というキャリアでは、競技の覚え始めからなので、上述の100回の練習と言うレベルの話だろう。
つまり、才能などと言うものではなく、「努力が、練習量が足りているか?」と言うレベルのものなのだということなのだった。


過去の先生の一言も時折思い出すと、非常にすばらしいことを言っていたものだと思う。
(当時は『?』だったが…)



部活の先生のことを思い出すように、読書をすると、今までの活きた経験がフラッシュバックする瞬間がある。
これは、新旧の記憶が、結合し強固となって、「経験知」として蓄えられる瞬間なのだと思う。


読書も着実に身になっていることを感じる今日この頃である。