今の若者が理想とする社長像とは…
今日新聞に「理想とする社長」は?
とのアンケートが載っていました。
トップは
……
私は今の人はあの人のことを「ビートたけし」ではなく「北野武」と言っているのでしょうか?
ジェネレーションギャップ感じます。
まあ、私も大ファンで、数年前、ある食品を販売していて、その商品を売る目標の一つとして
・「皇室御用達」として皇族に食べて頂けるようにしたい。
・「ビートたけし」に食べさせたい。
と2つの夢と無謀な野望を持っていたくらい、たけしの大ファン。それも映画も好きで、
映画監督としての「北野武」も大好きです。
(恥かしい話、昔は北野武の映画に出演している夢を何度か見るほどに…ファンだったのです)
ご本人も、映画監督としては「北野武」、コメディアンや映画の主演においては「ビートたけし」と使い分けて名乗っているようで、そこにご本人の明確な意識の違いが伺えます。
だって、コメディー色の強い映画を作るときは映画監督「ビートたけし」として、エンディングロールに出ていますから…
(著書を拝見するにもそのような意志が感じられましたし…)
ベネチアやカンヌで評価されて、天才から巨匠の名をほしいままにしている「北野武」がかっこよくうつるのも十分理解できますが、逆にあの天才「ビートたけし」の影響がその人たちにとっては希薄となっている感を否めません。
だから、大変ギャップを感じてしまいました。
良くも悪くもこのような、風潮になったことを、ビートたけし本人はうれしいのか否か?
(まあ、もともと本人がそのようにシフトするように仕組んだのであるのかないのかも気になりますが)
北野武も好きだけどビートたけしの存在が希薄になることはファンとして寂しいです。
でも、ご本人曰く(エッセンスのみ抜粋)
「俺は振り子のようなもの、コメディアンの『ビートたけし』の方に大きく振れることで、その反動を利用して、逆に反対側のシリアスな『北野武』に大きく振れることができ、それで、両端が非常に大きく振れる事ができる」
と…
これが彼のバランス論であり、北野武とビートたけしを使い分ける明確な所以だ。
今となっては、巨匠北野武を演じ(?)なければ、天才ビートたけしはいない。逆もまたしかり…
元々巨匠北野武は天才ビートたけしの振れすぎた振り子の反動として生まれたと言うことは本人も認めているフシがある。
これからもそんな彼のファンとして、彼を応援し、私の手本としたい。
また、後日談として…かつての野望「皇室御用達にする」「ビートたけしに食べさせる」については、その一年後に某テレビの番組協力をして、「ビートたけし」に食べてもらえるという目標は実現しました。
ただし、それを商業的な場面で活用することができなかった…
とんねるずの「食わず嫌いのおみや」や「はなまるのおめざ」を目指すべきだった…
でも、ビートたけしに食べてもらえたことは、それが実現したことにも驚いたし、とってもうれしかたです。
(そして、商人としては反省を通して、成長する気付きになりました)
あ、今日の言葉はなかったですね。
(今日はお休みです)